稲葉なおと/Naoto
Inaba 作家・写真家
東京工業大学建築学科卒業。
一級建築士の資格を持つ。
1998年、短編旅行記集「まだ見ぬホテルへ」(日本経済新聞社)を刊行。以後、旅行記と写真を発表し続ける。
2001年、長編旅行記「遠い宮殿―幻のホテルへ」(新潮社)で第10回JTB紀行文学大賞奨励賞受賞。
2006年、資生堂ギャラリー及びハウス・オブ・シセイドウにて初の写真展を開催。
2007年、USEN会報誌「With Music」にて初の長編小説「Drive to the Hotel」を連載開始。 |
|
その家は津山という町のこぢんまりした商店街に建っていた。
「実家」という言葉の意味さえよく理解できていなかった幼い頃、ぼくは毎年正月になると両親に連れられて、東京から父の実家と呼ばれるその家に泊まりに行った。駅からほど近い商店街なのにすぐ先には太い川が流れ、道を挟んだ反対側はそのまま山の斜面へと続いていて、もしかしたら狸や猪が隠れているのではないかと何度も眼を凝らしたのを覚えている。
その家には玄関がなく、化粧品店の石鹸の香りが漂う商品棚の合間を縫って奥へ歩くと、いつの間にか煮物の匂いが鼻をくすぐる台所の入り口に身を置いているという不思議なつくりの建物だった。ちらほらと雪が降る日に津山に着くとぼくには密かな楽しみがあって、それは商店街から挨拶もそこそこに建物の中を台所の突き当たりまで歩き、裏口の戸をそっと押し開くことだった。開けた瞬間すぐ足もとから遠くまで一面真っ白に染まった畑を目の当たりにするという体験は、窓の外にはお向かいの棟が立ちはだかる東京の団地住まいであったぼくに、まるで未知の世界へとつながる扉を開けてしまったかのような感動を与えてくれた。
東京から不思議な家への道のりは、丸一日かかるほど子どもには負担の大きい旅だった。けれども当時のぼくがそれを苦に思うどころか冬休みになるといつも津山に向けて出発する日を心待ちにしていたのは、ちょっと塩気のある黒豆入りの餅をこんがり焼いて腹一杯食べられることと、その家に住むふたりの少年と遊ぶのが楽しみだったからである。
ぼくの父は三人兄弟の長男で、ふたりは三男の子どもだった。ひとりがぼくのひとつ年下、もうひとりが五つ下だった。上の子とは年が近かったせいで、よく遊びつつよく喧嘩もした。お年玉として買ってもらったばかりのジャングル大帝の漫画本を手にしたその日にビリビリに破り合ったこともあった。台所で始まった取っ組み合いの喧嘩のリングが裸足のまま雪の敷かれた畑に移動していたこともあった。半泣き顔で相手のセーターを引っ張り合うぼくと上の子を、少し離れた安全な場所から、なんでこのふたりは寒いのにこんなところで掴み合っているんだろうとでもいいたげに、ぽかーんと眺めていたのが下の子だった。
雪合戦をしてもプロレスごっこをしても五歳下の子はいつも「ミソッカス」という肩書きでしか仲間に入れてもらえなかったのだが、ただひとつこのミソッカスにはぼくと上の子がどうしても真似できない得意技があった。炬燵を置くとさしてスペースの空いていない和室の隅で、下の子が両手両足を大きく広げてポーズをとるとおとなたちはその様子に注目し、両足がまたたく間に空中で美しい弧を描く側転を成功させると間近でサーカスでも見たかのようなやんやの喝采が起きるのだ。ぼくも上の子もミソッカスに主役の座をうばわれてなるものかと同じように両手を広げてアピールするのだが、次の動作は下の子のように奇麗に宙を舞うどころか無様に縮こまった足が空をもがくだけで、おとなたちからは拍手ではなく笑いが起きてしまいサーカスのピエロ役に甘んじるしかなかった。頬を引き攣らせるぼくと上の子に下の子は別に自慢するでもなく、部屋の隅でまた自分のやりたい時に自分のタイミングでその技を何度も成功させていた。もしも当時のぼくがもう10歳ほど年上だったら、クールな奴だな、とでもつぶやいたことだろう。
やがて、老舗和菓子会社の五代目社長となる上の子の名を、伸次といった。
炬燵の置かれた和室からドーム球場の特設大ステージへと舞台を替え、数人の親戚から数万人のファンへと観客を増やし、日本を代表するミュージシャンとなる下の子の名を、浩志といった。
あの頃のあの家のことをふと思い出す時、ぼくの眼にはいつも、ふたりの少年の姿が白い景色とともに浮かんでくるのである。 |
 |
『近代名建築で食事でも』
明治政府の近代化政策とともに世に送り出され、昭和初期にかけて建てられた貴重な近代建築。
高級フレンチから学食まで、今なお生き続け、愛されている東京の近代建築で、食事と喫茶を愉しみながら、撮り、書き下ろした体験をオールカラー写真とともに語る建築鑑賞紀行。
(白夜書房、2200円+税) |
|
|
|
 |
『アール・デコ ザ・ホテル』
パリ、ロンドン、上海、サンタモニカ、……。ホテルを旅する紀行作家が、10都市余りを訪ね、泊まり、撮りおろした、著者初めての写真集。
1920年代以降、世界に伝搬した美の様式アール・デコが、今もって人々を魅了し続け、都市生活に息づいていることを生き生きと伝える。
(求龍堂、2600円+税) |
|
|
|
 |
『巨匠の宿』
著名な建築家が手がけた、知られざる24の名建築の宿。
蔵王に建つ丹下健三設計の共済組合宿泊所、安藤忠雄設計の1泊2000円の公共の宿、ル・コルビュジエ設計の修道僧と寝食を共にする修道院……。
著者が1軒1軒泊まり歩き、撮影した美しいカラー写真とともに綴るエッセイ集。
(新潮社、1890円税込) |
|
|
|
|